「幸せ」であるということ
「幸せとはなんですか?」
って問いのこたえを、もう1年以上も前に考え始めてからまだ結論が出ないまま、ぐるぐるずっと考えてます。忘れたころに問いかけられる難問。
これに関して、最近ふと思ったのが、「幸せであろうとすること」と「世界を広げようとすること」はともすれば相反することなのではないかということ。
ここでいう「世界」とはあくまでも自分からみた世界ということで「自分の持つ全ての知識の集合体」と定義します。つまり、たくさんの知識を得ることは幸せには繋がらないのではないかと。
「幸せ」とは、そこにあるものではなくて、目の前にあるものたちの感じ方の一種だと、わたしは思っています。
「美味しいものを食べて幸せだ」「好きな人と一緒にいられて幸せだ」「綺麗なものが見られて幸せだ」なんていうのは全て、その人の感受性によって成り立つものです。
だとしたら、「知識が増えること」はさらに素敵なもの、さらにすごいもの、さらに立派なもの、そんなものを知ってしまうことに繋がるのだから、「幸せ」を感じるための感受性は鈍ると思うんです。
そしてたぶん、多くの人はどこかのタイミングでそのことに気づくんですよね。だからあんなにも好奇心旺盛な人がずっと同じ場所に留まり続けてるのかーとか、だからあんなにも尖っていた人がどんどん丸くなるのかーとか。納得です。
もちろん例外もあるとは思います。知識を得ることそのものにこの上ない幸せを感じる人は、「世界を広げること」と「幸せになること」を同時に成し得ちゃいます。
そして、きっとそういう人が、「活躍する人」になるんだろうなーって。
そしてそして、そういう人わたしの周りに割と多いんじゃないかなって。
みーんな、幸せに世界を広げてね。両立するタイプじゃない人は、素直に幸せになればいいと思います。
おしまい。